お仕事ファイル 第11回

 武蔵村山市議会議員
鈴木 明 さん
すずきあきら・第11期生

第11回目は、2011年4月に初当選を果たした鈴木明さんです。我が校の卒業生が武蔵村山市議会議員になるのはもちろん初。迷ったら一歩踏み出して、まずは何か実行してみよう!という気持ちになるお話しでした。
(取材2011.11.11杉山) 


まずはご当選おめでとうございます。

ありがとうございます。今年(2011年)4月の統一地方選挙で当選し、武蔵村山市議会議員の1期目がスタートしました。

市会議員というのはどんなお仕事か教えてください。

議員の仕事はすごくいろいろなことをやらなくてはいけないので、ご説明するのが難しいですね。年に4回議会があって1カ月ぐらいの期間で会議が開かれます。ここに参加するのが基本的な仕事です。

議会はどんなスケジュールで進むのですか?

本会議では、例えば市長だとか市役所の行政側から上げてくる議案に対して賛否を決めます。会議自体は9時半ごろから始めて、特に難しい問題がなければ大体4時か5時ぐらいで終わります。本会議が1~2日あり、その後は一般質問となります。これは議員が行政に対して質問する場でして、武蔵村山市の場合4日間設けています。1人当たり約2時間の時間を持っていますが使い方は自由です。あとは、各種の常任委員会で陳情請願の審査があります。陳情請願とは市民の方からいただいた、こういったことをしてくれという要望を議会に上げ、それを行政側にやってもらうことです。まずは請願内容を委員会で審査します。そして委員会で可決したものを、実施等するのか議会で決めるのです。

どんな質問をするのですか?

例えば道路に信号機やカーブミラーをつけてくれといった要望から、こういうことをやってくれと、ズバッと行政側に提言する政策的なものもあります。

鈴木さんは、どの常任委員会に所属しているのですか?

総務文教委員会です。事務関連や、学校関係のことをやっています。市が担当するのは基本的には小中学校の義務教育です。ですから学校と言いましても武蔵村山高校は都立高校、つまり都の持ち物になるので、あまり密接なつながりにはならないのが残念ですね。

市議会以外の日は、どんな活動をしているのですか?

個別の政治活動をしています。自分を売り込むためにチラシを配ったり、会合やイベントへの出席、あとは行政視察とか研修、勉強会といったものにも出ています。また、私は東京選挙区の20区に所属しています。ちなみに私の所属する政党では東京20区から加藤公一が国政に出ています。また東京都連の研修会などに参加して知識をつけたり、国政や都議会の選挙応援もあります。当選以来ほとんど休みはないですね。


議員以外の仕事はお持ちですか?

議員だけをやっています。収入の道は議員だけですね。実は議員にも「格差」がありまして、政令指定都市、東京都でいえば23区の議員は議員報酬が高いのです。政務調査費といって、研修会や政策に関して勉強するための手当ても23区内は高い。でも武蔵村山市の場合には1カ月1人1万円ぐらいしか出ないので、年間12万でいろんな政策のための勉強や視察などの活動をしなければいけない。ちょっと大変ですね。都内で行われる研修ですと、1回2万円から3万円かかるので、2~3回行けば終わってしまいます。

議員を目指したのはいつ頃ですか?

議員になろうと思ったのは、もう村高生だったころからなのです。絶対なるぞ!というよりは、漠然としてですが将来的になりたいなというか...。でも政治には興味がありましたね。実家は政治一族ではありませんが、親族が村山村(武蔵村山市の前身)の村長をやっていたのです。直接はあまり関係ありませんが、そういったことも一部あると思います。ジョン・F・ケネディが好きだったりとか、きっかけはいろいろあります。

どういう経緯で議員になられたのですか?

漠然と議員になりたいなとは思っていたので大学に進学し、その後アメリカの大学に留学しました。実は一度、市役所の職員になりたいと考えました。横田基地もありますし、英語は必然的にこれから必要になってくるということで市役所を希望したのです。ですが、アメリカ留学の卒業時期が合わなくて、また、バブルもはじけた時期でうまく就職できませんでした。

卒業の時期が違うのは就職に不利ですね

そうです。アメリカの大学は卒業時期が違ってしまうのです。最初の大学入学時にも1浪しているし、バブル崩壊も重なりで就職環境が厳しくなってきた時代でした。就職先がなくなる前に就職しなくてはということで、初めはJA東京みどり(農協)に入りました。

大学ではどんな勉強をされたのですか?

まずは長崎の短期大学に行き、それからアメリカの大学3年生に編入学しました。テネシーウエスレヤンカレッジという大学で心理学、それも社会学とか行動科学分野の勉強をしました。この勉強は今、議員としての活動に役立っていますね。議員は言葉がやっぱり武器ですから、相手が次に何を言ってくるのかなということを考えなくてはならない。やっぱり対人関係は重要ですね。

アメリカでの勉強はどんな風に役立っていますか?

アメリカの大学は、日本に較べると実際的なリサーチ、論文やレポートを書く機会が多いので企画力、構成力、表現力などを鍛えられました。大学院までは行ってないので広く浅くの勉強でしたが、議員というのも大体広く浅くなんですね。国政、都政なら別ですが、市議会だと、一つのものに対して集中してやるということまでは求められていません。広く浅くの知識で、いろんなところに参加して、いろんなことを政策に反映していくことを求められます。


JA東京みどりの後、選挙に出られたのですか?

いや、その他にも仕事をやって、それで最終的に選挙に出ました。議員になる前は信用組合にいたのですが、そこで融資担当などやっていました。当時、個人事業主さん、中小企業の社長さんから「税金を納めているのにこんなに朝から晩まで寝ないで仕事をして、何でこんな苦しい思いをしなくちゃいけないんだ。売り上げも伸びないし、借金があるから会社も畳むに畳めない。どこへ行っても借り入れは断られてしまう。やっていけない...。」というお話をたくさん聞きました。また、実際に倒産していくのを目の当たりにしてきました。そういうのを見て、なんでこんなに税金を払って、真っ当な人たちが報われないんだろうと考えていました。

助けられない悔しさを感じたのですね

そうですね。農協にいたときもそうだったのですが、農家さんでも都市農家の人は賃貸収入などもあるのでそれほど大変ではありませんが、固定資産税とか相続税が高過ぎます。これでは農家をやる人がいなくなっちゃいます。そういうのを目の当たりにして、何かこの国は間違っているのではないかという思いがつのりました。金融機関はバブル崩壊後に助けてもらい、銀行員だけ何でこんなに給料がいいのかなとか、何も悪いことをしてないのに何でこの人たちは生活が苦しいんだろうとか、そういう葛藤を感じるようになりました。

そういった体験が出馬へのエネルギーになったのですね

この前の8月で42歳になりましたが、そのころはまだ40歳でしたので、今ここで落ちてもやり直しがきくだろうなと思っていました。そして、最後にポンと自分の背中を押してくれたのは中学の同級生でした。同級生の「やっぱり武蔵村山って、いつでも帰ってきて集まりやすいね」という一言です。何か仲間というんですかね、そういうところで集まれるのはやっぱりいいねという話がありました。武蔵村山市は日産がなくなっちゃいましたし、市としての借金も多いです。武蔵村山市は今後、もしかしたらどこかと合併してしまうのではないか?そういうことも考えました。そうはしたくないな、やっぱりいつ帰ってきても武蔵村山市は武蔵村山市であり、武蔵村山市の学校を卒業した鈴木でありたいという思いがありました。

武蔵村山の幼なじみは良く集まるのですか?

ちょくちょくプチ同窓会みたいのをやっているんですよ。市内にまだ何人か住んでいるので、5~6人で集まったりとかしています。現実には市から出ていっている人は多いわけで、選挙のときもほとんど知り合いがいませんでした。昔の住所録で連絡してみてもいなくなっている人もいます。またお父さんとお母さんだけが残っていて、(うちの子は)いま仕事の関係でいないとか、結婚して出ちゃったとか...。でも逆に、いつ戻ってきても変らぬ武蔵村山市でありたいと思うようにもなりました。


議員になられて半年ですが、議員になって良かったと思われますか?

議員になって良かったと思います。困っている人が私に相談しに来てくれて、それに対して市にかけ合うなり、都にかけ合ったりできるのは喜びです。実現できるできないはまた別なのですが...。

実現したい夢の政策はありますか?

夢の政策ような大それたことはなくて、市民の皆さんが心配しているように自治体の崩壊は気掛かりな課題です。ギリシャや夕張はさかんに報道されていますよね。武蔵村山市がなくなるような事がないよう、会計制度を変えたり、外部監査を導入したり、とりあえずは武蔵村山市という名前がなくならないようにしたいです。人口が7万2000人ぐらいで、増えないんですよ。

武蔵村山高校も一時、統廃合の話が出たようです

やっぱり思い入れがある場所がなくなるのは、すごくつらいことなので、それだけは何とか阻止したい。いま国が道州制を導入して自治体も変えていこうという話も出ています。そうなってくると、武蔵村山みたいに何もないところは、どこかと合併しろと言われる候補として真っ先に挙がってきてしまう気がします。武蔵村山市の財政状態が良いとか悪いとかではなくて、もう何もないからじゃあそこら辺でまとまりなさいよ!みたいな感じになりかねない。実は武蔵村山の財政状況は指標的にはそれほど悪くないんです。借金が多いように見えているのですが、指標的には悪くありません。ただ指標はあくまでも目安であって実態はわかりません。数字に強い議員はあまりいないので、実態まで切り込んでいける議員がいなかったのです。

市の財政問題に着目されたのですね?

当選してすぐに会計制度の質問をしました。会計制度自体が単式簿記で、会計年度が1年単位のものしかやっていないんです。固定資産台帳みたいなのがあって、そのときの評価は出ているのですが時価での評価をしていないんですよ。株式会社が時価評価を求められるようになったのに、自治体は変わっていないんです。例えば、バブルのころに市が借入金で買った土地などは簿価のままなのです。実勢価格と恐ろしく乖離している可能性があるわけです。例えば1億で買ったものは今1000万の価値があるかないかという状況かも知れません。


金融機関出身で数字に強い鈴木さんの出番ですね

決算を組む前、監査が入るときに私たち議員も入っていないと実態がわからないのです。そこができてない制度もちょっとおかしいのですが、数字に強くないとなかなか問題点が見つけられない。これから議員になる人は、最低限の金融、経済、法律の知識は持っていたほうがいいと思いますね。あとは個人的な得意分野、例えば福祉とか教育とか、それまでの仕事で覚えてきた経験を政策にどんどん活かすべきと思います。これからもし議員を目指すという方がいるのであれば、そうした仕事を1度経験してから目指したほうがいいかなと思います。

議員はベンチャーに近い感じがしますね

はい。そうならないとやっていけない。ある程度どこかで経験を積み、自分の武器を持って、それで出る。そうしていかないと、いずれは煮詰まってしまいます。一般の仕事を経験した後、国会議員や都議会議員の秘書になって、政治を覚えていく。そういうプロセスが必要だと思います。いきなり政治家になるのは私はちょっと反対です。でも若い人にはどんどん議員になってもらいたいです。

ところで高校時代はどんな高校生だったのですか?

もう、いたって普通の高校生でした。目立つこともないですし、かと言って、特別おとなしいというわけでもなかったと思います。成績はそんなには悪くなかったと思いますが、部活もやっていなかったです。ただアメリカ留学はしたいと高校のころから思ってました。アメリカは自由主義の最先端の国ですから、そこにちょっと行ってみたいなというか。アメリカは本当の意味での自由主義国なのかとか、そういったことはずっと高校のときから考えてましたね。また国際的な仕事もしてみたいという思いもありました。

では最後に若い同窓生にメッセージをお願いします

やってみないで後悔するのはばからしいので、何か迷ったのだったら一歩踏み出して、まずは何か実行してみるべきだと思います。成功するなんていうのはほとんどないんですから、失敗してナンボだと思うんです。失敗して苦い経験を幾つも積んで、それでも成功したときにはもう本当にうれしいですから。


私も転職を何回かしまして、企業の中の歯車としてかなり悔しい思いもしました。自分の意見が通らないとか、そういうのもありますし、転職するときには何社も落ちますし...。それでもやっぱり自分を受け入れてくれる場所は、必ずあります。

「自分の場所」を見つけるのが肝心だと

はい。ただ、私も議員になったからそれでよしというわけではないので、今後、次につなげていくにはどうしていかなくてはいけないのか考えなくてはいけません。それにはやっぱり失敗はしていくと思います。私も、いまの私がやっていることが全部正しいかは、わからないんです。中には「それ違うよ」と指摘してくださる人もいらっしゃる。それはそれで言われたことを謙虚に受けとめて、変えるものは変えていく。失敗を恐れていたら何もできないですから。議員は失敗が続くと選挙に落ちます。もし次の選挙に落ちて45歳で仕事があるかといったら、多分ないと思います。でも、そこでやっぱり、ない、ない、ないと言っていてもしょうがないので、ないのだったら何とかする。自分で仕事をしてもいいですし、転職するなら、100社落ちても101社目で受かるかもしれないので、やっぱり続けていくことに意味があると思うのです。

素敵なお話をどうもありがとうございました


鈴木 明さんプロフィール

武蔵村山市出身。

高校卒業後、長崎の短大を経てアメリカに留学。

帰国後金融機関勤務等を経て41歳で武蔵村山市議会議員選挙に初出馬、初当選。